大岡昇平『歌と死と空』と『逆杉』『黒髪』『来宮心中』『保成峠』などの短編のこと

大岡昇平全集の読書が続きます。

昨日は『歌と死と空』と短編いくつかを読みました。



大岡昇平、短編があまりにつまらなすぎるので絶望しながら読んだ評判のよくない長編『歌と死と空』がめちゃくちゃ面白かった。久しぶりに時間を忘れて読書できた。ものすごい陳腐な推理小説で、話もテキトー極まりないんですが、推理小説で犯人を探せないアホなので楽しんで読めました。

posted at 01:40:16

やっぱり誰であれ好きなものをやっている時が一番輝いている。推理小説マニアがテキトーにやってる感じに、大岡昇平特有の戦記感、『事件』なんかで見られる推理を繰り返し繰り返し全部書いてく執拗さが既に爆発している。

posted at 01:42:53

最後にタイトルの意味がわかって笑った。この時期からもうブンガクみたいな気負いは無くなったのかこの話も全ての設定がテキトー極まりない…こんな遊びをやるなんてやっぱり大岡昇平意味がわからない。

posted at 01:48:01

最後自殺する(かなりアホで雑な方法)殺人犯の心理描写で、「俺別にそんな殺人したい気持ちでもなかった」みたいなことを延々無駄に書き散らすあたりが大岡昇平の意味不明さ。この辺のよくわからない奔放さに惹かれる…作品をただ文章の量とその区切られた範囲としか捉えていない天然な感じ

posted at 01:51:35

すごいなあ…推理小説は全然読まないけど270pくらいあって犯人の心理描写、セリフがラスト10pくらいまでしかなく、それが全部「別にそんな殺人したくなかったかな〜」みたいな意味不明な独白に終始するような話はあまりないと思う。

posted at 01:54:04

クロフツの『樽』やブラウン神父シリーズみたいな古典的な香りがするのは捜査の過程を執拗に書くからで、そこにドラマがあるわけではないのが特徴。 大岡昇平はどれだけ文章を書いてもそこにドラマがある、みたいな感じには絶対にしない。だからこういうドラマがいることを書くと自分からふざけだす

posted at 01:57:12

短編もやっぱり無理にキャラクターを作って喋らせるのよりは、『逆杉』『保成峠』みたいな資料や自然を前に観察を書くみたいな文章がすごい。『一寸法師後日談』みたいな自然の代わりに文章を先に置いたものでもやはりどこか無理矢理が出る。

posted at 02:00:24

この人は対象があってその大きさに見合う文章を書いていく感じの人なんです。レイテ戦記も野火も戦争というすごいデカイものを相手にしたからすごいデカイものを書けた。推理小説は多分、謎、という、自分が向かう動作をしていけるものを擬似生成できるから書くのが楽なんだと思いました。

posted at 02:04:29

本当にやっぱり大岡昇平はすごいんだな。そう、自分の内にこもってそこに文章があるなんて勘違いは違う。マンガも音楽も、レディオヘッドみたいに僕の内側はこんなメロディですみたいな態度は間違っている。

posted at 02:07:04

芸術とか、それを感じさせるものは外にあるはずだ。そうじゃないとそれを感じるという体の能力がおかしくなる。感官は外側の刺戟を受けて働くのであって、それは外側じゃないところには向いてない。内的世界なんていうのが幼稚に見えるのは、それがあると思うってことがナンセンスだからだ。

posted at 02:10:04

何か文章なり話、絵柄が心に浮かぶってことは、それが浮かぶという形で心の外に出てしまったことをワカルということで、それは内側からのメッセージとか本能のアレではない。ただ体の中にも内側に見えるような外側があるだけの話で、この部分しか人間の意識には上がらないからここが全てな気がするんだ

posted at 02:13:44

大岡昇平はそこの姿勢みたいなのが本当天然なくらいシャンとして、真っ向から来るものを真っ向から受ける以外してない。それが明治生まれ戦後派根性なのかは知らないけど、もう二度とこんな人間は出ないだろうくらいのすごさがある。

posted at 02:17:46




『歌と死と空』は作品内容的には、つまり文学的、ゲイジュツ的には大変アウトな作品で、別に作品という冠をつけなくていい程度の筆の遊び的なものです。しかし大岡昇平の新聞連載という筆の遊びに見られる文章の選択、書き方などから露骨に浮かび上がっている大岡昇平らしさというものに打たれました。
この人はどこかやっぱり物事をただ物事として向き合おう、扱おうというサバサバした生理欲求を持っていて、そこがあくまで文学という立場に閉じこもりそこで自分の好きなことをひたすらしていようなどという大江健三郎みたいな人とは違う。
あくまで文章を書くことに対して散文的な精神で臨んでおりこの『歌と死と空』はその「臨む」という姿勢、あくまで外物としての文章と向き合おうという姿勢が確立されたもののように読めました。
『化粧』や『雌花』はどこか自分の内省から主題を探し、それを内側から湧き上がる文章で彩ろうという錯誤のようなものがあったのですがここにはもうそれはありません。
どの登場人物も定められた枠の中で生き生きとしており息苦しさがない。作者に行動を制限されているような不幸なキャラクターは一人もおらず、作者もまた単純に登場人物に命令するそれとしてではなくその自然の帰結的な行動を見守ろうという態度に終始しているようでその対象と文章によって向き合おうという姿勢が非常にすばらしいものに感じられました。
やはりこの態度でないと物を書くということはしていけないように感じられます。


『歌と死と空』は5巻に収録されているのですが4巻に収録されている多数の短編はそれに対してなんだかこうひたすらの試行錯誤と失敗の積み重なりのようなもので読むのがつらいものがたくさんありました。
来宮心中』や『黒髪』といった作品は『花影』『武蔵野夫人』などに見られる女は孤独に死、男は浮気しみたいな世界観の延長にあるものですがどちらも大岡昇平の美しいわが文章により(実際美しいのですが)その美しさを閉じ込めようみたいな意欲が物語すべてに先行してしまい、三島由紀夫に見られるような圧倒的つまらなさを醸し出していました。
その後短編で何か書くことをあきらめたかのような精神分析的主題や犬の死の話などが続きますが大岡昇平の文章ではとてもいわゆる名短編のような雰囲気を築き上げることはできないようで、今のところ大岡昇平の短編でおもしろいと言えるものはすべて戦争にまつわる随筆的なものばかりです。
もっとも『逆杉』や『保成峠』のような歴史物もどちらもまだ成功とは言えませんがこれまでのオリジナル短編とは違った趣を発しており、『逆杉』などは主題の選び方に無理があった(文章がもたない)ようですが、『保成峠』などは大大傑作の『天誅組』の方法下調べのような感じがあっておもしろいです。ただまだ堅苦しく、筆致も文章の紹介と批評というところに終わっているのがなんともいえないです。
一寸法師後日譚』は根はまじめな大岡昇平のシニカルさではとても描ききれなかったという空想的な主題で尻切れトンボに終わっていますが、そういうふうにとりあえずいろんな主題に突撃して自ら手ごたえを確認しないではおれないという姿勢そのものがいかにも大岡昇平的だと言えると思います。失敗せずにそれを失敗と決め込むことも、行動しないでは何もできない大岡昇平はやはり行動の人で、そこが尊敬できるな、と思いました。

『雌花』『化粧』などの長編における失敗も、大岡昇平はしなければすまなかったのでしょうし、4巻におさめられたあまたの失敗した短編も、そうでなければならなかったのだと思います。