水上瀧太郎『汽車の旅』のこと


細々と続く水上瀧太郎全集読書も一巻を終え二巻もようやく中盤、永井荷風の『あめりか物語』みたいなものにオエーと思ってしまう自分にはつらい明治人訪米記が続くのでかなりしんどいのですが、やはり読む気分の時に読むと異国の地でも水上瀧太郎水上瀧太郎という水上瀧太郎さを発見できて気分があがります。

『汽車の旅』という中編。サンフランシスコから東海岸まで汽車旅行する道中の旅行記なのですが、そこに登場する女の人との会話のシーンがすばらしいです。ラフカディオハーンのことでやりとりをしたりするのですが、このラフカディオハーンのことみたいな、それ小説にいる?みたいなことまで何も考えずに書いてしまう、そういう何でも書くことへのセイジツさ、自己編集機能のなさみたいな、書いたもの、それがすべてという確信の硬さみたいなものを僕は水上瀧太郎に感じていてその真面目さがいいなと思うのですが、このラフカディオハーンについて思ってることをそのまま書くことにそれが強く出ているなと思いました。

一体この『汽車の旅』という小説は旅行記なのかエッセイなのか紀行文なのか全然わからない、そういうものの見方から隔絶された、それ故にそういう見方のできていく過程としてのブンガク史からは切り離された、もっと人が文章を書く行為そのものに根ざした根源的な内容をもっていると思います。これは作品がエライということではなく、ここから感じられる謎の、今文章を書く人間にはつかめないようなバランス感覚をもう一度理解しようとする必要があるのではないかということで、僕はそれをわかりたいと思うし、水上瀧太郎全集を読む方針をそれに固めつつあります。

水上瀧太郎自身はこれを小説として書いたようです。しかし読む人間(僕)はそれを小説には読みづらい。このギャップは100年くらいのものだと思いますが、その間に一体何が何に変容していったのか。水上瀧太郎がこれから先マトモな小説を書いたのか、また瀧太郎と同時代の人間がどんなマトモな小説を書いたのかも考えねばなりませんが、永井荷風だって二葉亭四迷だってマトモな小説を書いていることを思うと、じゃあこれは私小説なのかとも感じられてきます。個性の問題なのでしょうか?けれどこの文体や文章の運びには私小説とするにはあまりにも瑣末な箇所や紀伝体にすら感じられる部分がある。とてもおいそれと私小説と同定する気持ちにはなれないのです。とにかく何をしたのかすらこの時点では謎の人、水上瀧太郎。買いかぶってる気がしないでもないですが、もう少し考えながら読書を続けたいと思います。