ジョシュア・オッペンハイマー『アクト・オブ・キリング』のこと

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久しぶりに長く感想を書き連ねたくなる映画を見てきました。今うわさのアレです。この映画については内容というよりヴェルナー・ヘルツォーク製作総指揮というところに個人的には惹かれていて、どちらかというとインドネシアの虐殺いかんについてはそこまで実は宣伝が大きいだけでたいした事件でもなかったんだろう程度にたかをくくっていました。実際映画を見ても今インドネシアでこれがどういう扱いをされているのかがよくわからなかったのですが、少なくとも国営放送でキャスターが「共産主義者をたくさん殺す方法を見つけ出した人たちです!」というテンションでアンワルさん(虐殺おじさんのボス)を紹介しているだけあってかなりの浸透度はあるみたいです。黒歴史だけども一応あってよかったこと、という風に処理されているのでしょうか?

この映画を何も知らない一人の日本人として観るとなると視点は「100万人規模の虐殺(人を一方的に共産主義者だと決めつけて殺した)を指揮した人」がそれを元に自分たちは何をしたかについての映画を作ることになって、その過程を見せられている、という感じになり、インドネシアの歴史とかを無視して(知らないのでそこらへんをふまえられない)単に昔人をたくさん殺した人が、その社会的にはよしとされている軌跡を自分でもう一度、それをよしとされたものとして振り返ろうとしている、という場面を見続けることになります。特に映画の冒頭から終始虐殺者たちが世間のヒーローとして(少なくとも大きな顔をして)立ち振る舞い、我が者顔で自分の虐殺を得意げに語り、歌や踊りに興じ、様々なところに顔を出してはヒーロー扱いされていく様にはドン引きする他なく、えっ?なんで、こんなたくさんの人を殺したヤクザが、ここまで世間の喝采を浴びているのだろう?という思いがどんどん心にこびりついていきます。しかしそれだけで終わるならこの映画はインドネシアにはキチガイがたくさんいるなあ。。で終わったのですが、ここで映画は主題である「映画作り」に移って行きます。自分たちがかつてどういうことを人にしたかということを、当時を忠実に再現しようとしてたどって行けばいくほどそのリアルな状況再現に虐殺メンバーの誰もが、そこにある残虐さ、非道さを直視せざるを得なくなっていき、それぞれそれが「罪」であるとは認めようとしないものの、そこに歴史や社会を超越した何か直接な「自分が人にしたこと」が残っていることに気づいて行きます。

僕はこの映画を観る少し前にピーター・シンガーレオ・シュトラウス倫理学についての本をいくつか読んでいて、そのどれもに釈然としないものを感じていました。それらの本は言葉で人間の善性を証明しようと試みていたのですが、人間が生物であり、何よりも真っ先に生物学的な存在であるということについて何の反省もなされておらず、ただ近代以降の自然権うんたらの理論の歴史上にあるテキストという以上に価値を感じるものではありませんでした。そしてそれらの本を読んで一番かかえていたもやもやである、善悪や罪と罰についての答えの1つが、この映画で示されているように感じました。それはものすごく直接的な「痛み」の記憶です。痛みは物理的なもので、それは人間が介在する場合、与えるか与えられることでしか、この世に存在することができない感覚です。道で石につまづいてこけた時の膝小僧の痛みというものは道を歩く度に気をつければ済みますが、では人間が特定の誰かから与えられた痛みというのは、いったいどうやって解消することができるのでしょうか?この映画で最もカメラを向けられている主人公的な存在のアンワルおじさんは虐殺のリーダー的存在で、多くの人をたくさんの方法で殺してきました。それが罪なのか、悪なのかはともかく、それは人に痛みを与える行為であり、その痛みは多くの人の命を奪ってきたのです。そしてアンワルおじさんはこの映画で自分が虐殺を追体験し、拷問される側の人間の役割を演じたりすることによって、はじめてその自分の与えた「痛み」というものを感受することができたのです。そしてその「痛み」の体験が脳内にある自分の虐殺の記憶、痛みを与えた人間の記憶、その数、「閉じてこなかった眼」、とつながることで初めて、アンワルおじさんは自分のしたことを感じることができた。ここに善悪も罪と罰もないんだ、ということに僕は気づきました。もちろん罪を言うなら、与えた痛みの量が罪であり、その痛みを追体験することが罰なのだと思いますが、罪と罰はどちらも言葉であり、現実に照らし合わせるとどう考えてもその罰であれだけの罪を補うことは不可能だし、罪も単に殺した人の数で計算してそれでいいのかという問題もあります。罪を計る正確な方法がない以上、罰のことを言うことはできないでしょう。善悪も法律が決めるものだとすれば、インドネシアでアンワルおじさんは自分の作った映画で自分が殺した共産主義者から首にメダルをかけられるほどに善なる存在です。

けれどどれだけ社会が、世の中が、理屈が、自分を肯定しても、自分のした行為は、自分の中に残っているのです。その行為の残り香が、それを納得させようとしたり、悪夢になって立ち現れたりするだけで、自分のした行為は、どこまでも、死ぬまで残り続ける。そういうことは善悪も何もかも超越している、すべての根本で、そこの部分でしたことがすべて、それをしたあとのすべての自分自身につながっている。何が悪いか、でこの映画を観るのも自由だと思うけど、この映画のあまりの深刻さにドン引きした僕の中には罪とか罰じゃなくて、人には自分が何をしたかだけが残り続けるんだ、ということしかわかりませんでした。