ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』のこと

愛、アムール

愛、アムールとは編集



久しぶりに映画を見に行きました。イングロリアスバスターズ以来でしょうか?見た映画はミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』。高校時代の友人と見に行きました。アムール!アムール!

さて僕はハネケの大ファンです!宮崎駿そっくり(?)のふさふさのあごひげから醸し出される、あまりにもバイオレンスで豊穣な負の香りに、いったいいくら打ちのめされたことか、覚えていないほどです。しかし僕はハネケ映画の前では全裸のM男同然なのです。僕はハネケさんの映画のフレームワークが始まる瞬間からもうああ、僕はこれから打ちのめされるんだ、うれしい、またしばいてもらえるんだ、という負のわくわくでいっぱいになります。ああ、映像を・・誰かがお金をかけて作った映像を見るだけで、心をめちゃくちゃにしてもらえる、この幸福!眼福!今回はいったいどんなふうにしばいてもらえるのだろうと、twitterでハネケの映画が今やってることを知ってから毎朝毎晩妄想をしては期待を膨らませてきました。だって今回のテーマは、愛、アムールで、老人介護で、ハネケ映画ですよ?これもうバスタブで腐乱死体しかないでしょう?バスタブで腐乱死体ですよ。絶対ラストにバスタブで腐乱死体がきます!!そういうところまで僕の妄想は謎の危険域に突入していっていたのでした。

しかし・・しかしです・・オーストリアの偉大なひげもじゃおじさんは、東洋のしょぼくれた童貞フリーター(童貞だからフリーターで、フリーターだから童貞)の妄想なんてとっくの昔にお見通しなのでした。ああ!!ハネケさん!!!監督!!!あなたはファンもすっかり裏切らない最高のオープニングで物語をはじめてくれました。。僕の「バスタブで腐乱死体」妄想は一瞬で崩壊し、甘いS的攻撃への期待は、打って変わって一瞬でドキドキの、新鮮な「待機」の状態へと、スクリーンの前の僕を引きもどしてくれたのです。あの冒頭シーンと、劇場に入ってくる老夫婦とのシーンのつながりは、そうやってハネケ映画にハネケ映画的期待をしていた、僕のような人間的に残念なファンへの、警告のようなものだったのではないですか?これは物語だ、対峙しろ・・というメッセージを僕はたしかに受け取ったような気がします!そうして若干くしゃっとなった心の上をキャンパスにするように、ハネケ監督の映像が一筆一筆地獄絵図をあぶりだすのでした。。

映画のことをこれ以上詳しく書くとネタバレになるので内容についてはもうあまりいうことがありません。というか内容はハネケ監督のお家芸を見せられた、というのが唯一にして絶対無二の印象で、それ以上のことは、僕はあまり感じなかったように思います。これがハネケだ、ということの永遠の持続がそこにありました。なにをしても、俺がハネケである限り、俺の映画が、ミヒャエル・ハネケである、という安定のハネケ感。『ファニーゲームUSA』にも感じた、なにをしても自分の作品にしかならないことが楽しくて仕方がないような、ハネケ監督の満面の笑みが浮かぶような構成がいたるところに見受けられました。映画としての点数はつけられないし、つけられないので、高評価されざるを得ないような、そんな作品だと思います。愛、アムール、そういうことをもはやここまで完成されたものから感じ取ろうとするのは、むしろ自分の現実感への一種の破壊になるのではないでしょうか。それくらいのインパクトと、確固たる完成度が、ここにはあるように思いました。そしてなんといっても、この介護というテーマは、僕にとっておじいちゃんとおばあちゃんの物語であります。僕の祖母はもう死にましたが、40代で倒れてから80代で死ぬまで、ずっとこの映画の中のおばあちゃんのように半身不随の寝たきりで、最後の方はお腹を切開して便秘を取り除かなければならないほどでした。僕にはほとんど、おばあちゃんの記憶はありません。ただ、周りの、祖父を知る人は、祖父がずっと祖母の車椅子を押して、毎日毎日、手厚く介護していたという事実を知っています。その祖父も今100歳。結局祖母は老人ホームに入りそこで10年くらいの年月を行き風邪で死にました。僕はそういう風な光景をいろいろ見てきているので、ここにあるシーンのバイオレンスさ?現実味?というものには、そうだな、という感想しか抱けませんでした。そしてそこで、僕はこの映画にふつうに感動できなかった、ということになるのですが、それでもこの、ハネケ映画を見るときにはかつてなかったほどの心の余裕というのはいったい何かと思って考えてみるに、この映画が実はこれまでのハネケ映画とは少し違う、『タイム・オブ・ウルフ』系の、SF的作品であるという点が、僕にそういうふうな受容をさせたんだなということがわかりました。実はハネケというのはリアリストにみえて、至極怜悧なユートピアン的傾向を内に秘めています。というのは、実際『ファニーゲーム』のような光景はあり得ないし、『ピアニスト』みたいな意味不明な女の人はいてもまあ自分の胸にナイフをぶっさしたりしないことはあきらかだからです。でも、それらはすべてものすごく、ものすごくぎりぎりのラインで、「あるかもしれない」の「きっとある」寄りなのです。そこがハネケ映画の現実味のみそなのですが、この映画ではハネケはそのみそ部分にこだわることなく、随時妄想的な美しいシーンを惜しげもなく挿入していきます。そこがこの映画の新味でもあるのですが、同時にハネケ映画のユートピア的側面をおしげもなく、というより抑えきれなくボロボロこぼしている側面がたくさん見えて、そこにいつもの冷静さを維持できなかったような不満足さを感じざるを得ませんでした。ハネケのハネケらしさは、このような注意深さにもあるのですが、同時に頭でいろいろ考えすぎて条件や選択肢を絞りすぎてしまうために、最後の最後に不思議に詰んでるとしかいいようのない選択肢をこらえきれずにやってしまうという違和感をどうしても残してしまいます。それがこの映画では冒頭の大切なシーンで一番見えてしまい、そこにちょっとげんなりしてしまったなあという感じはたしかにありました。けれども全体的には本当にいい映画だと思います。ここには前作『白いリボン』にあったような張りつめたような緊張感もなければ、あるのはクラシックの音楽と老人の妄想だけですが、たしかになにか突き抜けたような、ハネケ監督の、これをやりたかったんだ、というものがあるようです。

個人的にはおじいさんが鳩と戦うシーンがツボでなぜか笑いそうになってしまいました。ハトってフランスでもあの鳩なんだ・・