戸坂潤『日本イデオロギー論』のこと

日本イデオロギー論 (岩波文庫 青 142-1)

日本イデオロギー論 (岩波文庫 青 142-1)


ウルトラえらい!!!

この本を読んでいく中で、僕が感じたことは要約すれば上の二語につきます。
戸坂潤のいう「唯物論」というものがなにか、ということについてあまり頭を使わずに、
そういう言い方でくそみそにやつけられる、というよりは開明されていく日本のイデオロギー
あるいは文献学主義、自由主義というものの正体についての描写のこの精確さは本当にすごいです。
あまりにもすごい本で、感想ごと呑み込んでしまった感じなのと人差し指が今ちょっと痛いので、
文章はこれくらいにしておきたいと思います!でもとにかくえらい!この本は1億人が読むべき。



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[Amazonに書いたクソカスタマーレビュー]





僕は平成生まれなので、本当に昭和のことは「むかし」というぼんやりした実感しかなく、
日本の歴史と言われても、

ずっと鎖国してて〜それで文明開化して、なんかわからないけど戦争して〜
2回目でボロ負けして〜それでなんか今日まできてる。

みたいな、ずさんもほどほどにしろ!と言いたくなるような史観しかもっておらず、
それでどんなに自分の頭で考えてもどうして日本がわざわざ満州なんかを作って、
それでもって列強がどうとかいう発作としか思えないようなことをしてまで、
アジア主義という名目で世界に突撃していったのか理解できなかったのですが、
この本を読んでちょっとそれがわかりました。

某『菊と刀』やカレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』もおもしろい本で、
結構「ああ、そういうことだったのか。」というような発見の得られる本でしたが、
この本もそれと同じくらい明瞭に、しかも日本人自身の手によって、それも戦争の前に、
それについての明晰な分析が述べられていて、そのあまりのすごさに衝撃を受けました。

戸坂潤氏のいう唯物論というのは、ページをくっていくごとに、
話が批判から拡がってその唯物論というところに触れざるを得なくなってくるごとに、
そのどことなくぼやけた、「常識」としかいえないような内実を露呈させていくのですが、
別にこの本は唯物論がえらいという本ではなく、何がどうしてこうなったか、という状況分析の本なので、
その点は僕には全然気になりませんでした。
むしろひとりの完全な哲学要素などの教養にあふれ言葉を自在に駆使できる常識人が、
その目で世の中の状況をみたときいったいどんなものが満ち溢れており、それが社会を動かしているか、
ということの書いてある本だというふうにとらえて読みました。

この本で最初にさんざんコケにされるのは解釈学、いわゆる文献学で、
これはようするに今でも新書などでさんざん出版され続けている、例えば論語を読めばビジネスがわかる!
系の「ううん?これは論語にそう書いてあるというよりは、論語にもそう書いてあるといえるだけなのを、
無理矢理論語にそう書いてあったことにして、順番を入れ替えてるだけじゃないか?」
というような本、もといそういう本をぼんぼん書いて恥とも思わない感性の総体のことだと思うのですが、
そういうものが当時日本国内で「日本主義」というようなものを形成していたのだ、ということがこれでわかりました。
僕が昔の日本史を読んでどうして日本がああなったかわからなかったのは、ものすごく単純な、
「当時の人もよくわかってなかった。」という理由らしいということが、これで見当がつきました。
和辻哲郎が「人間」という言葉について「人」と「間」という漢字を使って述べた壮大な講釈について、
それは『人間』という漢字にだけに使える講釈であって、それがすなわち世界共通のHumanという概念と合致する保証は一切ない、
と書くあたりは皮肉たっぷりで読んでいて笑えました。

そこから批判は続いていき、そのような日本式文献学の根本にある日本式自由主義と言うようなものに批判は向かいます。
この自由主義というのは、「自由とはいうけど、でも別に何が自由とは決めてない。」というような、
「なんとでもいえる」みたいな意味での自由主義であり、その内容の本質的な道徳的薄っぺらさが、
かえってそれをどういうものか体系づけよう(何がダメかくらい決めよう)という動きにいろんな思想を取り入れながら変容していき、
最終的には道徳的自由主義、何がダメかは決まっているが、何がダメかを決まってないと言ったりするのは、
そういう個人的な感傷の部分で自由について吠えるのは大いに結構です、世の中と関係ないからね、
といいう「文学的自由主義」に行きつく、ということが述べられ、ここで僕の頭の中ではそれが白樺派の、
あのなよなよとした武者小路実篤的、北山透谷的な「平和」「自由」「新しい村」といった価値観につながり、
そういうことか、という驚きがありました。
また、西田哲学についても「ロマンティックで文学的な観念論。」と一刀両断しており、
ああ、たしかに西田幾多郎って、その歩いていた道が「哲学の道」になったりするくらい、
『ロマンティック』な人だったよなあ、と当たり前のことに気づかされました。

そういうテツガクの実質的中身のなさが、同じく中身のない日本主義にどうして勝てないかというと、
日本主義の根底にある自由主義がそういう哲学すら日本主義化して取り込んでしまうからで、
結局そうなってくると、文化人の役割というものが実質すべて日本主義を主張するものとなってしまい、
軍部という物理的な暴力装置に文化人が物理的に対抗する手段がない以上、
その物理的な力関係にすべてが支配されざるを得ない、なぜならすべての思想は日本主義化するからである、
と言うようなことが言われます。ただこの結論あたりになると、
戸坂潤は自分の唯物論の立場をやたら有益だと押し出す文章が少し増えてくるので、
また、この本がその日本主義直下にかかれたものであるというアクチュアリティもあって、
総合して結論を出す、と言うふうにはなっていない、これからも様子を見るしかないというふうになっているのが、
この本の唯一のおしいところだと思うのですが、今の世の中を見てみると、
なかなかこの本の説明で完全に説明できそうなことがたくさんあって(上の新書とか、「ポストモダン」とか。)
そういういろんなことをこの本から考えていくとものすごく楽しくなります。

またこの本を読んで、僕の中では、ようやく文明開化から戦争までがつながったような感じがしました。
ようするに西田哲学も文明開化のたまものであり、そういう外来物を「開化」的に需要し続け、
その変形物しか生み出せないという傾向はJ-POPしかり延々と明治当初から受け継がれている日本の世界的なユニークさの要因であり、
そういうところの謎を解き明かさないと、今の世の中はよくわからないんじゃないかという感じになりました。

しかし同時に、今よく言われる、日本がもう一度戦争をするのではないかという点は、
この本を読んで、それはないだろうというふうに思うことができるようになりました。
というのもあくまであの戦争の発生は歴史的なものであり、日本の国民性の愚劣さとか、
そういうものが原因になったのではないということがわかったからです。
とにかく様々なことを思ってしまったのでとても感想は書ききれないのですが、
難しい本ながら、言ってることはシンプルで文章もすごくうまいので、何回か読めばたぶんわかるし、
国語の教科書レベルの本だなあと思いました。