バロウズ『夢の書―我が教育』のこと

夢の書―わが教育

夢の書―わが教育


久しぶりにウィリアム・バロウズを読みました。ウィリアム・バロウズというより、山形裕生氏に嫌気がさして(この人は根はまじめだけど、世の中のこととかそういう大きいスケールのことを言うときに、すぐものすごくふわっとしたことを言おうとする。それはこの人が頭でっかちだからだけど、本人は幅広く知識を得ているというそういうディレッタントな側面を頭でっかちとは言わないというふうにおそらく考えているので、それで本人はものすごく自由にものを言っているふうだし、受け手もそのスタイルからそういう自由さのようなものを感じ取るけど、実は幅広く本を読んで、自分の頭でそこから考えた以上のことは何もないすごく普通の人なので、そう思ってみてみると、その過激な言い回しはそういう言質を衝撃的だと受け取るような世界の中でしか通用しない、そういう内輪向けの言葉でしかないようで、結果それを解説文などで毎回訳書で読ませられると、僕はその世界にいないのに、どうしてその世界の言葉で僕に話しかけてくるんだ?というプレッシャーを感じ、最終的に読む気が失せてくる)読まなくなっていたのですが、いざもう一度読みだしてみると、やっぱり壮絶というか、相当意味のわからないぶっとんだ人だというのがあらためてわかって、すごいなあと思いなおしました。


[読み終わって記]

山形氏が解説で暗いアレな本といっていたが、むしろ淡々とした、老人の日バロウズ編というものを感じました。夢が暗いのはだれでもそうだし、いわゆる「ないめん」で人が「くらい」のはだれでもそうではないですか?時折挿入されるカットアップ、あるかもないかもわからない内容、それでいて幽玄さとか、幻想的なところが一切ない不思議なバロウズ世界は健在でした。