コンスタン『アドルフ』のこと

アドルフ (新潮文庫)

アドルフ (新潮文庫)


コンスタンの『アドルフ』、読もうとしてぱらぱらとめくったらびっくりしました。
コンスタンの『アドルフ』は、僕が一度読んだことのある本のようでした。

冒頭の、作者がどこぞの旅館で青年と知り合い、彼の残したとある遺品の中からある手帳を発見し、そこに書かれてある一連の出来事の記録を、その持ち主の方のその内容への解説の手紙を添えて出版した、というていを取っているこの作品のあふれんばかりのつまらなさが、そこから一気にどがっと脳の中に盛り返してきました。

一概にフランスの心理小説の古典というと、まずそれは「エライ」とされているわけですが、どうも冗長で、また登場人物の心理描写が一方通行で「もっとなんか思えよ」と言いたくなるようなものばかりであることが多く、心理というよりはセリフなき独り言のト書きのような文章が跋扈していて読むのがいやになります。

僕にとって心理とはまずもってそのような文章つらつらのかたちで表現できるような文章で現れてくるようなものではなく、むしろそれは気分と言ってよいようなもので、言葉にしようと思えば言葉にできるけど、言葉にした瞬間から何かを言葉にする作業というよりはある気分に基づいて言葉をゼロから生み出す作業のようなものに変わって、その気分それじたいではない場合が往々にしてあります。
気分と心理は違うのか、心理というのはそもそも文章の形で心の中で思ったことなのかはよくわかりませんが、そんな文章なんか「吐き出せ」としか言いようがありません。

心理がそこまで完成されているなら、僕ならマンガにして、マンガを書こうという原動力にしてそのまま一本のネームにねじ上げますが、そういうのがないのであれば、本当に思ってるだけじゃなくて言えよ、としか言いようがありません。
あるいは日記に書くとか、そういう吐き出し方がなされるべきであって、そして心がそういうふうなところまで行ったとたんに、この小説がそもそも「手帳=日記」に書かれたものである、という仮想の前提に行き当たります。

そうなのです。そもそも、この小説の書き出しは、僕がこういう小説にイライラする当のもの、それじたいを前提にしてしまっているので、ではそれがこの当時の、心理小説の一般的作法だったということと照らし合わせて考えてみると、見えてくるのは、やはり当時の人も、キャラがぐだぐだ喋るような、「ところでこいつは誰なの?」と言いたくなるような文字のへんてこな羅列には飽き飽きしていて、そんなの人に見せるんじゃねえと思っていたのだということです。

では、僕は人の日記を見るつまらなさと、そこに書かれてある物事の一方通行さ(日記なので当然なのですが)にイライラしているのでしょうか。そしてそのイライラが、それが仮想のものであるということで一層上乗せされ、どうせ仮想なんだから、もっとはっちゃけろよ、という気持ちに盛り上がってしまっているのでしょうか。

おそらくそうなのでしょう。これが心理小説の傑作と言われていることにもむかついているので、ついでにそのこともイライラの原因に入れてもいいでしょう。

最後に訳文の問題があります。僕が読んだのは現行の新潮文庫版で、もしかすると原語や、他の訳文で読むと涙ボロボロの話なのかもしれません。そこはたしかに問題なので他のものを探してみようと思います。

こういう小説こそおもしろいと感じたいのに、全然おもしろくなくて、これは暖炉の火をつけるときのためとかにちょうどいいページ数だというので、末永く印刷され燃やしたいときに燃やしてね風に各家庭に普及していたのでいつの間にか今から見ると古典と言えるような地位をその印刷数によって獲得していったのか?というような思いしか感じません。どうしたらいいんだ・・

フランス文学じたいが僕には全然理解できない。何こいつら甘ったれてんだ、というようなことばかりが賢そうに書いてる。