E.H.カー『危機の二十年』のこと

危機の二十年――理想と現実 (岩波文庫)

危機の二十年――理想と現実 (岩波文庫)


E.H.カーの危機の二十年を読みました。国際政治ということについての本ですが、政治や法など、そういうものごとの根本的なことがわかっていないへたれ童貞には、むしろそういうこと全般の概説書として、すごくわかりやすくてためになる本でした。僕はやっぱり無知なので、こういう岩波文庫からではなく、もっと一瞬で読めるような実用書から読んでいったほうがいいのではないか?というような気がしてきました。僕はやっぱり脳が相当かたわなので、ちゃんとなおさなくてはいけません・・・

バロウズ『夢の書―我が教育』のこと

夢の書―わが教育

夢の書―わが教育


久しぶりにウィリアム・バロウズを読みました。ウィリアム・バロウズというより、山形裕生氏に嫌気がさして(この人は根はまじめだけど、世の中のこととかそういう大きいスケールのことを言うときに、すぐものすごくふわっとしたことを言おうとする。それはこの人が頭でっかちだからだけど、本人は幅広く知識を得ているというそういうディレッタントな側面を頭でっかちとは言わないというふうにおそらく考えているので、それで本人はものすごく自由にものを言っているふうだし、受け手もそのスタイルからそういう自由さのようなものを感じ取るけど、実は幅広く本を読んで、自分の頭でそこから考えた以上のことは何もないすごく普通の人なので、そう思ってみてみると、その過激な言い回しはそういう言質を衝撃的だと受け取るような世界の中でしか通用しない、そういう内輪向けの言葉でしかないようで、結果それを解説文などで毎回訳書で読ませられると、僕はその世界にいないのに、どうしてその世界の言葉で僕に話しかけてくるんだ?というプレッシャーを感じ、最終的に読む気が失せてくる)読まなくなっていたのですが、いざもう一度読みだしてみると、やっぱり壮絶というか、相当意味のわからないぶっとんだ人だというのがあらためてわかって、すごいなあと思いなおしました。


[読み終わって記]

山形氏が解説で暗いアレな本といっていたが、むしろ淡々とした、老人の日バロウズ編というものを感じました。夢が暗いのはだれでもそうだし、いわゆる「ないめん」で人が「くらい」のはだれでもそうではないですか?時折挿入されるカットアップ、あるかもないかもわからない内容、それでいて幽玄さとか、幻想的なところが一切ない不思議なバロウズ世界は健在でした。

戸坂潤『日本イデオロギー論』のこと

日本イデオロギー論 (岩波文庫 青 142-1)

日本イデオロギー論 (岩波文庫 青 142-1)


ウルトラえらい!!!

この本を読んでいく中で、僕が感じたことは要約すれば上の二語につきます。
戸坂潤のいう「唯物論」というものがなにか、ということについてあまり頭を使わずに、
そういう言い方でくそみそにやつけられる、というよりは開明されていく日本のイデオロギー
あるいは文献学主義、自由主義というものの正体についての描写のこの精確さは本当にすごいです。
あまりにもすごい本で、感想ごと呑み込んでしまった感じなのと人差し指が今ちょっと痛いので、
文章はこれくらいにしておきたいと思います!でもとにかくえらい!この本は1億人が読むべき。



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[Amazonに書いたクソカスタマーレビュー]





僕は平成生まれなので、本当に昭和のことは「むかし」というぼんやりした実感しかなく、
日本の歴史と言われても、

ずっと鎖国してて〜それで文明開化して、なんかわからないけど戦争して〜
2回目でボロ負けして〜それでなんか今日まできてる。

みたいな、ずさんもほどほどにしろ!と言いたくなるような史観しかもっておらず、
それでどんなに自分の頭で考えてもどうして日本がわざわざ満州なんかを作って、
それでもって列強がどうとかいう発作としか思えないようなことをしてまで、
アジア主義という名目で世界に突撃していったのか理解できなかったのですが、
この本を読んでちょっとそれがわかりました。

某『菊と刀』やカレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』もおもしろい本で、
結構「ああ、そういうことだったのか。」というような発見の得られる本でしたが、
この本もそれと同じくらい明瞭に、しかも日本人自身の手によって、それも戦争の前に、
それについての明晰な分析が述べられていて、そのあまりのすごさに衝撃を受けました。

戸坂潤氏のいう唯物論というのは、ページをくっていくごとに、
話が批判から拡がってその唯物論というところに触れざるを得なくなってくるごとに、
そのどことなくぼやけた、「常識」としかいえないような内実を露呈させていくのですが、
別にこの本は唯物論がえらいという本ではなく、何がどうしてこうなったか、という状況分析の本なので、
その点は僕には全然気になりませんでした。
むしろひとりの完全な哲学要素などの教養にあふれ言葉を自在に駆使できる常識人が、
その目で世の中の状況をみたときいったいどんなものが満ち溢れており、それが社会を動かしているか、
ということの書いてある本だというふうにとらえて読みました。

この本で最初にさんざんコケにされるのは解釈学、いわゆる文献学で、
これはようするに今でも新書などでさんざん出版され続けている、例えば論語を読めばビジネスがわかる!
系の「ううん?これは論語にそう書いてあるというよりは、論語にもそう書いてあるといえるだけなのを、
無理矢理論語にそう書いてあったことにして、順番を入れ替えてるだけじゃないか?」
というような本、もといそういう本をぼんぼん書いて恥とも思わない感性の総体のことだと思うのですが、
そういうものが当時日本国内で「日本主義」というようなものを形成していたのだ、ということがこれでわかりました。
僕が昔の日本史を読んでどうして日本がああなったかわからなかったのは、ものすごく単純な、
「当時の人もよくわかってなかった。」という理由らしいということが、これで見当がつきました。
和辻哲郎が「人間」という言葉について「人」と「間」という漢字を使って述べた壮大な講釈について、
それは『人間』という漢字にだけに使える講釈であって、それがすなわち世界共通のHumanという概念と合致する保証は一切ない、
と書くあたりは皮肉たっぷりで読んでいて笑えました。

そこから批判は続いていき、そのような日本式文献学の根本にある日本式自由主義と言うようなものに批判は向かいます。
この自由主義というのは、「自由とはいうけど、でも別に何が自由とは決めてない。」というような、
「なんとでもいえる」みたいな意味での自由主義であり、その内容の本質的な道徳的薄っぺらさが、
かえってそれをどういうものか体系づけよう(何がダメかくらい決めよう)という動きにいろんな思想を取り入れながら変容していき、
最終的には道徳的自由主義、何がダメかは決まっているが、何がダメかを決まってないと言ったりするのは、
そういう個人的な感傷の部分で自由について吠えるのは大いに結構です、世の中と関係ないからね、
といいう「文学的自由主義」に行きつく、ということが述べられ、ここで僕の頭の中ではそれが白樺派の、
あのなよなよとした武者小路実篤的、北山透谷的な「平和」「自由」「新しい村」といった価値観につながり、
そういうことか、という驚きがありました。
また、西田哲学についても「ロマンティックで文学的な観念論。」と一刀両断しており、
ああ、たしかに西田幾多郎って、その歩いていた道が「哲学の道」になったりするくらい、
『ロマンティック』な人だったよなあ、と当たり前のことに気づかされました。

そういうテツガクの実質的中身のなさが、同じく中身のない日本主義にどうして勝てないかというと、
日本主義の根底にある自由主義がそういう哲学すら日本主義化して取り込んでしまうからで、
結局そうなってくると、文化人の役割というものが実質すべて日本主義を主張するものとなってしまい、
軍部という物理的な暴力装置に文化人が物理的に対抗する手段がない以上、
その物理的な力関係にすべてが支配されざるを得ない、なぜならすべての思想は日本主義化するからである、
と言うようなことが言われます。ただこの結論あたりになると、
戸坂潤は自分の唯物論の立場をやたら有益だと押し出す文章が少し増えてくるので、
また、この本がその日本主義直下にかかれたものであるというアクチュアリティもあって、
総合して結論を出す、と言うふうにはなっていない、これからも様子を見るしかないというふうになっているのが、
この本の唯一のおしいところだと思うのですが、今の世の中を見てみると、
なかなかこの本の説明で完全に説明できそうなことがたくさんあって(上の新書とか、「ポストモダン」とか。)
そういういろんなことをこの本から考えていくとものすごく楽しくなります。

またこの本を読んで、僕の中では、ようやく文明開化から戦争までがつながったような感じがしました。
ようするに西田哲学も文明開化のたまものであり、そういう外来物を「開化」的に需要し続け、
その変形物しか生み出せないという傾向はJ-POPしかり延々と明治当初から受け継がれている日本の世界的なユニークさの要因であり、
そういうところの謎を解き明かさないと、今の世の中はよくわからないんじゃないかという感じになりました。

しかし同時に、今よく言われる、日本がもう一度戦争をするのではないかという点は、
この本を読んで、それはないだろうというふうに思うことができるようになりました。
というのもあくまであの戦争の発生は歴史的なものであり、日本の国民性の愚劣さとか、
そういうものが原因になったのではないということがわかったからです。
とにかく様々なことを思ってしまったのでとても感想は書ききれないのですが、
難しい本ながら、言ってることはシンプルで文章もすごくうまいので、何回か読めばたぶんわかるし、
国語の教科書レベルの本だなあと思いました。

バルザック『セラフィタ』とメアリ・ダグラス『儀礼としての消費』のこと

セラフィタ

セラフィタ

セラフィタ、どんな話かなあ、パリかなんかの、ゾラ的な、ちょっと薄汚く小汚い、売春婦的な何かの話かなあと思って読んでみたら、いきなり舞台がノルウェーで、スウェーデンボルグなんかが出てきて、冒頭のセラフィトゥスとセラフィタが交互に出現するあたりのおもしろさはものすごかったのですが、後半ドストエフスキーばりに各人のセリフが何ページも続き、そのセリフがすべてを説明してしまいしかもまったくおもしろくなく、だらだら妄想が垂れ流しになってるなあ、というあたりはキリスト教徒でもなんでもなければ国書刊行会的幻想がそんなに好きでもない人間には苦痛というか、えっ?なんでオチのわかってる話でこの残ページ量なの?という思いがどうしてもぬぐえず、結局この小説は、セラフィタの設定だけ取って、頭の中で萩尾望都のマンガかなにかに勝手に漫画化して、その妄想を楽しんだ方がはるかにおもしろい、というところに落ち着きました。それにしてもスウェーデンボルグって何者なんだ・・・


儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)

儀礼としての消費 財と消費の経済人類学 (講談社学術文庫)


ホカートの『王権』がおもしろかったので、最近出たえらい系の本で王権とかそういう風なタイトルのこの本を買ってみましたが、これはあまりに専門的というか、アイデアはいいけど書き方が下手みたいな(なんというか文章で人にものを伝える能力が下手すぎ)スケッチのようなもので、全然おもしろくありませんでした。
ネットでは誉めてるのか誉めてないかわからない、なんでこれがちょっといい本扱いになってるかわからないけど、いい本扱いになってるし、いい本だと思おうか。みたいな紹介しかなかったのでここに無益なことではありますがこの本がおもしろくないということを明記しておきます!!この本はおもしろくない!!

どういうところがおもしろくないかというと、これはもう僕が素人だからとしか言いようがないのですが、まず、消費というもののとらえ方について、人がものを買うことを言ってるのか、それとも人が何かを使うことを言ってるのかがまったくはっきりしないこと。前者ならともかく、後者を儀礼と言ってしまうのはようするに「人間の生活はひとつの儀礼である」ということで、何か言ってるようで何も言っていない、ただの言った気になってること、ということになるのではないかと思いました。どうしてそれが経済学との「架橋」なのかが全くわからず途方に暮れてしまいました。

「財の消費は社会的である」というのはスゴイ!と思ったのですが、しかし一方で、例証としてひっぱってこられるのは、どこかの文章からの恣意的な、「たしかに言われてみればそうかもしれないけど」レベルの引用で、しかもそれがものすごくせせこましい、例えば人を家に招くことみたいな、それ厳密に言えばそれ1つで独立した消費とかとは関係のない文化の領域になるんじゃないか?というところで、人がそうやって人を招こうと思ったりとか、自分のキャラを確立するのにお金がかかるから、だから消費ということはされるんだ、という、ふたを開けてみればそれで?としか言いようがないごくごく一般的なことを、自分の言ってることは学的に間違ってないといわんがためだけの迂遠なクソみたいな言い回しをもって叙述されるので、読んでいて学術的な専門用語や歴史的背景がわからないことからくる、「こいつの言ってることは絶対めんどくさいだけで真実ではないが、ではどうおかしいかと言われると、そもそもこいつのしゃべってることが意味不明なので何も言えない」という歯がゆい感想しか出てこない、そういう学術的な言辞で立場を守られているようなへんな感じがあり、それが一層不快でした。へんな、たしかにそういうグラフを描けばそういうことは言えるよ、でもそのグラフにそもそも正当性があるのかがわからないんだよ、みたいなどこかの大学のかわいそうな教授の人が書いた新書に出てくるようなグラフもまったく意味がわからない・・・

一見深い顔をしていますが、言っているのはようするに、人間がものを買ったりするのには意味があり、意味とは社会的なものなので、そういうところを経済学だけでなく、人類学的な視点から分析すれば、よりいっそうそのことが判明するはず、みたいなこと。問題はそういう当の人類学がぽたぽた焼のうしろに書いてあるおばあちゃんの知恵袋的なものしか出せていないことで、それを堅苦しく狭苦しくせせこましく、きっとかろうじて言えるだけの部分だけを死体みたいに次々並べるだけのことしかできていないために、この本で提出された貴重なアイデアが死んでる、ということだと思います。なんというか、これならこの本のタイトルだけ覚えて、あとは自分の頭で妄想した方が楽しいという本でした。あまりにも残念すぎる。。

きっとメアリ・ダグラスと浅田彰いうどこかで聞いたような名前のネームバリューと、講談社学術文庫というTHE知的みたいなイメージによって、その印象を(講談社が)非常に自分たちにとって得なふうに操作しているような本ですが、とにかく全くおもしろい本ではなく、ああ、こういう本を読んでいるから頭が悪くなるんだなあ、という感じの存在価値のないがり勉君御用達の本なので、あまり読んだり買ったりすることはオススメできません。これを読むくらいなら、もっとちゃんとした古典の本を読んだほうがいいんだと思います。というかこの本しかこういう分野のこういう本がないからこの本が古典になってしまっているまでで、もっとこれからこういう分野のこういう研究が間違いでなければいい本はいっぱい出てくると思うので、それを待つかしたほうがいいと思います。なんというか古典って、そういう面でも大切なんだなあと思いました。この人の『汚辱と禁忌』は絶対読まないぞ・・

なんというかポストモダンとかああいうのって、難しい言葉ばかり覚えたがり勉君(社会経験ぜろ以下)が、そればっかり延々使ってしょうもないことを書いたせいで、そのしょうもなさがエライことのように錯覚されて、実際中身がなんにもないスカスカだったために、後世にそこから何も引き継げないという重大な影響を及ぼした、ただそれだけのことのように思えてきました。こういうのっていいことだとは思えませんね・・・。

ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』のこと

暁の女王と精霊の王の物語 (角川文庫)

暁の女王と精霊の王の物語 (角川文庫)


読みました。角川文庫リバイバルコレクションに収録されているものです。
旧字旧かなにふさわしい古めかしいお話で、何が書いてあるのかさっぱりわからないながら、
古臭い文字つかいのたゆたいを読む感覚を楽しむことができましたが、
やっぱりこういう妄想小説、おいおっさんいい年こいてこんなこと考えてて大丈夫か?
と言いたくなるような小説はやばいなあと思いました。

ネルヴァルは頭がおかしくなり、首を吊って死んだ人なのですが、ヤバいなあと思いました。

本当にかわいそうな人だなあと思いました。

大今良時『聲の形』のこと

http://kc.kodansha.co.jp/magazine/index.php/02065/newest



今週のマガジンに掲載された大今良時という方の『声の形』という短編が評判です。

あらすじは聴覚障碍者の女の子がいじめられ、いじめられるけど、最後はハッピーというもの。


最初読んでの感想は、「いじめが全然ちゃんと書かれてない、なんだこの絵空事は!」


といういつもながらの発作だったのですが、その感想を反省しているうちに、だんだん自分が物語というものじたいに、変なきめつけをしていたということに気が付きました。

その決めつけというのは、「何かを描くときは、それをなるだけそれそのものとして描かなければならない。」ということです。


僕はこのマンガを最初、いじめを描いている作品だと思って読んだので、この作品のいじめの描かれ方のあまりのテキトーさに嗚咽をもらすほどでした。しかし、このマンガの主題はどう考えてもいじめではなく、耳の聞こえない女の子と、耳の聞こえる男の子の青春ロマンみたいなところにあるようで、いじめはいわば二人がラブラブになるための舞台装置として使われているにすぎません。この「舞台装置」というものの扱い方を、これまで僕はよく理解していなかったのです。


作家は自分の好きなことのために、好きなだけ別の物事で、その意味を通すことができるということに、いままで何故か僕は気付くことができなかったのです。このマンガはどう考えても、古典的ないじめを受けている可愛い女の子が最後にシアワセになるのは見ててうれしい式のロマンスで、それ以外の内容はどこにもないはずです。それなのに僕はこのマンガのいじめの部分にばかり注意を向け、その現実感のなさ、あまりのテキトーさに吐き気を催していた。

これはものの見方が間違っていたのです。

こういう話はただ純粋に、このカワイソーな女の子のけなげな様子を見て、涙をそそられ、その最後の救いのあるオチに、ああいい話だったなあ!と思えばそれでよいので、それ以上にこういう話に意味はありません。



なのになぜか僕は、この物語の設定に深く、そのまま字義通りに受け取る形で疑問を抱き、その疑問の解消をストレスの発散と同期させて吠えたけってしまった。これはいったいなぜなのでしょうか。そしてまた、多くの読者の人たちも、ネット上で反応をうかがう限りは、やれいじめだの、聴覚障碍者だの、感動だの、そういうことに一途になって、脳が錯乱しているようにしか思えません。



僕はこれまでずっと、何かを書いて伝えるなら、それをそのまま書くべきで、変な道具とか茶番を満載して、それそのものを意味のない、一時の印象だけにしてしまってはならない、と勝手に思い込んでいました。つまり今回のようなやり方はタブーだと思っていて、むしろ今回のようなマンガは、いじめを現実的に描こうとしたが、失敗した凡作、というふうにとらえがちでした。しかしこのマンガは青春ものなのです。青春もので、最後はヒロインと主人公が結ばれるという、ごく当たり前の結末があるだけの話なのです。ここには何の暗い影もなければ、意味もないし、ただ作者がいいな!と思った恋愛の一つの形が、マンガの形式で表現されているだけです。これをわれわれは、実際の何かを描いたものとしてとろうとし、その解釈を誤ってばかりいる。これはほんとに徒労だと思いました。


そしてこういうものの見方が実は普遍的にあるということに、僕は今気付いて驚きを隠せません。これは絶望です。マンガは嘘でよくて、それでお金を稼げればいいものだというのであれば、それは絶望です。現実は作者にとって道具で、それで万事解決でオーケーなのでしょうか?現実を書かず、何か恋愛観なり、観念を書きたいなら、それを読む人が現実の人で、それを字義通りに受け取るということを、打っちゃってよいのでしょうか??


僕はこのマンガを読んでこれがいじめだなと思う人がいればその人のいじめ観はその人の人生においてずっと悲惨なままだと思います。いじめは青春の障害物ではないので、いじめを経験したことのない人がこういうものをいじめだなと思うのは本当にうんざり。けれどもそれはその人のモラルの程度の問題ではないか、ということもでき、これをただのマンガとして読めない人は、それだけ現実をわかってないので、そういうふうに解釈するのは当然で、そんなやつほっとけ、ということもできます。少なくとも僕はそう思うしかない。そんなやつは一生、うんこを世界一のごちそうだと思ってむさぼり喰っとけ。


このマンガはただの恋愛もので、これについてやいのやいのいう人は、みんな程度が低い。だがしかし、この作品はやっぱり問題作といって間違いのない作品だと思います。それはいじめを、恋愛ものの舞台装置にしてしまって、その現実を置き去りにしたことに、やはり罪がある、重く受け止めるべきだと僕は思います。



一言で言うなら、FUCK OFF!!

ホカート『王権』のこと

王権 (岩波文庫)

王権 (岩波文庫)


ホカートの『王権』を読みました。タイトルからしてものすごくつまらなそうな、諸星大二郎的な民俗学趣味について読まされるんだろうなと思って辟易していましたが、なぜか読みました。そしてものすごくカンド―しました。
最近このような読書によるカンド―がたびたび起きてうれしい限りなのですが、僕がこの本を読んで思い出したのは座右の書、E.O.ウィルソンの『人間の本性について』です。このホカートという人の視点は非常にE.O.ウィルソンの小ざっぱりした感じに似ていて、翻訳も良く、これまた久しぶりに一気飲みのような読書を楽しむことができました。

この本はいわゆる「王様」についての文化を比較して、ヨーロッパの戴冠式からどこかフィリピンあたりのよくわからない原住民が住んでそうなエリアでのそれに該当しそうな儀式とを比べて、それが似通っていることなどをあぶりだしていく本なのですが、僕にとって新鮮だったのは、「技術文化の低い国が、文化程度が低いとはいえない」といった記述や、「キリスト教の儀式は原始宗教的である」というような記述で、そういう神話などの成立におけるギリシャ文化の独自性や、そういった様々なことが過去に複合的に起こり、またそういう一貫性のないものが過去であり、これまで地球上の人間の上に流れてきた時間であり、それはあるひとつの視点に基づいて一元化できるようなものではない、といったものの見方でした。

また人間が神々の化身であるというよりは、「神々」という概念を表現するために、「人間」という概念があますところなく使用された結果、神が人間と同等の存在、あるいは人間が神と同等の存在になっていくことで、王権の神聖さというものが確立されていき、神聖さという概念は実は、神的なものというよりは人間的なものの派生物である、というような見方にも衝撃を受けました。ああそうか、という感じがしました。

僕はこれまで、西洋的な文化がとりあえずは完成形であり、東洋的な文化はそれとは逆の方向性であれ、少なくとも技術的には西洋に劣っているのだから、西洋的歴史観において、東洋を西洋の前段階的なものとしてとらえることは正当なことだと思っていました。
しかしここにある、南洋の島々で延々受け継がれる儀式の、それの受け継がれた何千年の密度というのはけして西洋世界のそれと比べて劣るものでもなく、その点では文化程度は高いといえるといったような考え方は、技術一辺倒で、ものさし一辺倒で世界を見、歴史をねじ曲がったことのない一直線で古代から連綿と続くものとして例外を廃し見ようとするような見方、時間観を大いに修正してくれたように思います。

ようは世界にはさまざまな時間がさまざまな場所で流れているのだということを僕はこの本で学んだ気がします。古代を探究することには僕は残念なくらい意味も価値も感じていませんが、ある史観についてそれを反省し続けることには重要性を感じます。イエスキリストは唯一のものではないし、文明化されることによって何かがそがれるわけではない。いったいそういう見方はどこからやってきたのかというと、常識にとけだし蔓延したわかりやすい科学的仮説からだったりします。そしてこの考え方の広がり方をみても、物事を一直線で考えることはできない、ということがいえそうです。


特にイニシエーションが王権より後にできたという件、何かの残骸から新しいものが生まれることなどないという点は、マンガのことでもあるなあと思ってすごく感動しました。そうか、オリジナルって、やっぱりオリジナルなんだなあというカンド―です。

この本を読んで僕の民族学嫌いが克服されたとはいえず、むしろこの本くらいのことがわかってなぜまだそんなことをするのかわからないくらいなのですが、それでもこの何もかもをいっしょくたに平面化してその飛び散り具合をそれぞれの山に囲ってみるような視野の広さには驚かされました。この本はまた単なる民族学の本というだけでなく、人間学社会生物学的存在としての人間についての学、また西洋文明批判の書だともいえると思います。とにかくこの『王権』というタイトルにしては想像を絶するくらいの深いスケールの物語にぐいぐい引き込まれてしまいました。イエス・キリストとオーストラリアの原住民の太陽信仰がほとんど同じくらいのレベルだなんてことをこの人がもし15世紀くらいにいっていたとすればまず火刑は免れなかったと思います。ホカートが現代の人でよかった・・・