ホカート『王権』のこと

王権 (岩波文庫)

王権 (岩波文庫)


ホカートの『王権』を読みました。タイトルからしてものすごくつまらなそうな、諸星大二郎的な民俗学趣味について読まされるんだろうなと思って辟易していましたが、なぜか読みました。そしてものすごくカンド―しました。
最近このような読書によるカンド―がたびたび起きてうれしい限りなのですが、僕がこの本を読んで思い出したのは座右の書、E.O.ウィルソンの『人間の本性について』です。このホカートという人の視点は非常にE.O.ウィルソンの小ざっぱりした感じに似ていて、翻訳も良く、これまた久しぶりに一気飲みのような読書を楽しむことができました。

この本はいわゆる「王様」についての文化を比較して、ヨーロッパの戴冠式からどこかフィリピンあたりのよくわからない原住民が住んでそうなエリアでのそれに該当しそうな儀式とを比べて、それが似通っていることなどをあぶりだしていく本なのですが、僕にとって新鮮だったのは、「技術文化の低い国が、文化程度が低いとはいえない」といった記述や、「キリスト教の儀式は原始宗教的である」というような記述で、そういう神話などの成立におけるギリシャ文化の独自性や、そういった様々なことが過去に複合的に起こり、またそういう一貫性のないものが過去であり、これまで地球上の人間の上に流れてきた時間であり、それはあるひとつの視点に基づいて一元化できるようなものではない、といったものの見方でした。

また人間が神々の化身であるというよりは、「神々」という概念を表現するために、「人間」という概念があますところなく使用された結果、神が人間と同等の存在、あるいは人間が神と同等の存在になっていくことで、王権の神聖さというものが確立されていき、神聖さという概念は実は、神的なものというよりは人間的なものの派生物である、というような見方にも衝撃を受けました。ああそうか、という感じがしました。

僕はこれまで、西洋的な文化がとりあえずは完成形であり、東洋的な文化はそれとは逆の方向性であれ、少なくとも技術的には西洋に劣っているのだから、西洋的歴史観において、東洋を西洋の前段階的なものとしてとらえることは正当なことだと思っていました。
しかしここにある、南洋の島々で延々受け継がれる儀式の、それの受け継がれた何千年の密度というのはけして西洋世界のそれと比べて劣るものでもなく、その点では文化程度は高いといえるといったような考え方は、技術一辺倒で、ものさし一辺倒で世界を見、歴史をねじ曲がったことのない一直線で古代から連綿と続くものとして例外を廃し見ようとするような見方、時間観を大いに修正してくれたように思います。

ようは世界にはさまざまな時間がさまざまな場所で流れているのだということを僕はこの本で学んだ気がします。古代を探究することには僕は残念なくらい意味も価値も感じていませんが、ある史観についてそれを反省し続けることには重要性を感じます。イエスキリストは唯一のものではないし、文明化されることによって何かがそがれるわけではない。いったいそういう見方はどこからやってきたのかというと、常識にとけだし蔓延したわかりやすい科学的仮説からだったりします。そしてこの考え方の広がり方をみても、物事を一直線で考えることはできない、ということがいえそうです。


特にイニシエーションが王権より後にできたという件、何かの残骸から新しいものが生まれることなどないという点は、マンガのことでもあるなあと思ってすごく感動しました。そうか、オリジナルって、やっぱりオリジナルなんだなあというカンド―です。

この本を読んで僕の民族学嫌いが克服されたとはいえず、むしろこの本くらいのことがわかってなぜまだそんなことをするのかわからないくらいなのですが、それでもこの何もかもをいっしょくたに平面化してその飛び散り具合をそれぞれの山に囲ってみるような視野の広さには驚かされました。この本はまた単なる民族学の本というだけでなく、人間学社会生物学的存在としての人間についての学、また西洋文明批判の書だともいえると思います。とにかくこの『王権』というタイトルにしては想像を絶するくらいの深いスケールの物語にぐいぐい引き込まれてしまいました。イエス・キリストとオーストラリアの原住民の太陽信仰がほとんど同じくらいのレベルだなんてことをこの人がもし15世紀くらいにいっていたとすればまず火刑は免れなかったと思います。ホカートが現代の人でよかった・・・