吉田健一『ヨオロッパの世紀末』のこと

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

久しぶりにすごい本を読み、すごい作者の人に出会いました。
吉田健一・・・

僕は19世紀のことがよくわからないので、
ゾラみたいなイメージしかないのですが、全般的に特に興味を持っておらず、
(18世紀も別に、たまたまその時代の作者の人のモノを読むことが多くて、
その羅列がモザイクみたいに18世紀のイメージを作ってるだけなのですが)
そんな19世紀の終わりについて書かれたこの本について何故興味を持ったのかもよくわからないのですが、
読んでみると18世紀の、あのデカルトとか、そういう感じの、
テツガクしてれば全部開けてくるじゃん?みたいなのが、
そういう人たちの勝手に設定し、時を経ることで細分化していった科学とか
そういうものの力により、徐々にドイツ観念論なんかに見られるような、
観念を決めて、これに殉ずるみたいな感じで世の中のことをああだこうだ述べて、
その述べたことに基づいて戦争をしたりする、そういう人間が人間でなくなり、
ただ自分たちのうちの誰かが決めたことに従属するマシンになっていったということが、
これでもかとばかりに明瞭にきりっと書かれており、
その問題提起のやり方が全然今の時代に物事をどう見るか、
ということについても勉強になることばかりだったので、
ついついものすごい感動を感じてしまったのです。

特に観念に人が殉ずるようになっていったくだりは
この時期のテツガクなんかを読んで、たとえばカントやヘーゲルが、
なんでその言葉の意味をそこまで考えるのか、
と当たり前に僕たちが?と感じてしまうその違和感について、
彼らがそれを言葉そのものとして受け取っていたのではなくて、
つまりたとえばある観念をその観念を指す言葉の意味として受け取っていたのではなく、
本当に観念として、そういうものがあるのだとしてしか見ていなくて、
それを表すのに言葉が存在し、むしろその言葉の存在だけがその観念である、
ということを根本的に見落としていたのだ、ということに気づかせてくれました。
これだけでも僕には長年の胸のつかえがとれたようでした。
テツガクの本ではこういうテツガクの昔の偉い人がただの言葉に飼い殺されていたことについて、
「偉すぎたから」
みたいな解説しかされていないのです。
そうだよなあ、偉すぎるだけじゃないよなあということがこの本を読んでやっとわかりました。
ベルクソンのすごさも、なぜそれに僕が惹かれているかも言葉にしてもらえたようでした。

とにかくすごい先達に僕は出会ってしまいました。

やっぱり西洋哲学が西洋の人のうちだけ偉い人を見出すのも、
それが西洋哲学という未開の部族の風習だからで、それを外部から来る民俗学者としてしか
需要できない東洋の人間(この本に照らして、まだこの見方はできると確信していますが)
にとっては、それはやっぱり、独自の文化の一つでしかなく、
西洋の人で勝手に盛り上げといてくれ、ということにしかならない。
まさにテツガクがそういうものだと、ちゃんと東洋の視点で書いてくれていることに、
心の底から強い感銘をうけた次第であります